取材などを受けると、よく聞かれる質問のひとつに
「小さい頃、美術や技術の成績はよかったんじゃないですか?」
と問われます。
確かに悪い成績ではなかったのですが、今を思えば二面性があった気がします。
自ら絵を描いたり、ものづくりをする事に対しては、尋常ではない集中力と関心をもってい
ましたが、
座学に関しては驚くほどに臆病でした。
美術の教科書をめくるたびに、
小学校の低学年くらいまでは「ああ、なんて素敵な作品が世の中に溢れているのだろう」
と感動に浸ったものです。
しかし、ある時から不安に襲われるようになります。
それは美術館で作品を見る感動と、教科書の小さな写真で見る作品から受ける感動との大き
な落差を感じたからです。
本来であれば、人生のしかるべきタイミングで本物の作品に触れ、心から感動に浸るはずで
す。
しかし、先に画像で「情報」を得てしまうと、その後本物に触れた時の衝撃は半減します。
「私にはそんなもったいない事ができない」
そう、強く感じて教科書をめくる事に違和感と恐怖に近い感覚をもったことを鮮明に思い出
します。
大学にはいると、自分が人の作品に影響を受けてしまわないかと不安に襲われ、美術館や展
覧会に訪れる事や音楽を聴く事すらためらいました。
30代半ばほどにようやくそのような感覚から解放されたのですが、
いまだに書籍で美術作品に触れる事にはためらいを感じます。
記録画像、記録映像を介して人間が受ける感覚には魂がこもっていないことが数多くありま
す。
ですので、記録画像を元に絵を描くと、あからさまに写真からおこしたことが受け手にはわ
かります。
魂がこもっていないのです。そこから導かれる感動はありません。
写真家はそこに魂を込めることができます。
情報や知識を得ることも大切ですが、数少なくとも本物に触れる喜びは人間の魂を震えたた
せます。