「4がつ の はな」<br><font>とある日の午前04時03分</font>

ちょうど、去年。

3人目のこどもが誕生しました。

はじめての女児です。

 

非常に身勝手ですが、

息子たちを含め男どもは「おんなのこ」に盛り上がるのです。

 

助産院で産まれた彼女は、ほどなく病院で診察をうけました。

21トリソミー、いわゆるダウン症候群というやつです。

 

「病気ではなく、彼女の個性として受け入れてください」

 

それが医師からの言葉でした。

 

 

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思い返せば14年ほど前。

独立した当初の私はその日の食事にも困難をきたすほどの生活苦の中で制作に励んでいました。

 

徐々に腕も上達し、少しずつでも信頼を得ることに必死になっていた日々。

その頃ひょんなことから友人の誘いで、とある造形教室のお手伝いをするようになりました。

睡眠もろくにとれない状況でしたが、浦安市まで通って月に一度のボランティア です。

 

十数名の地域の子どもたちが集まるのですが、

彼らはみな発達障がいを含めた様々な障がいを抱えています。

 

マンツーマンで講師がつき、思い通りに1年間造形を楽しみます。

対象は小学生です。

狙いは、小学校でフォローしにくいストレスを緩和させること。

親御さんに自由な時間をつくってもらうことで、親御さんへの緩和も狙いのひとつです。

 

この場所に限っては、よほど危ないこと以外は全てを認めます。

時には私も全身絵の具まみれになります。

 

それでも「よくやったね、大成功」と褒めます。

 

叩かれたり、暴言をはかれ、唾をかけられることもあります。

それでもしっかり抱きしめてあげます。

 

学校は「教」に重心が傾きがちですが、ここでは「育」に傾けるのです。

 

不安なんです。

 

寂しいのです。

 

きっとそれだけのこと。

 

十数年の活動も市が継続を断念することで、

2016年3月をもって、惜しまれながら終わりを迎えます。

 

最後の活動日の週末。

 

私のもとに彼女がやってきました。

 

 

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正直言って混乱しました。

 

それなりにダウン症のことは理解しています。

 

二次障がいの可能性。

必ずしも知的障害を抱えるわけでもありませんが、その可能性の大きさ。

一般的に寿命が短いこと。

 

「一般的に経験するような人生を彼女は送ることができないのかな」

 

と、理想とも現実とも悲観ともいえないビジョンが映像として父親の頭に流れ込んでくるのです。

 

何より一番大きいのは自責。

そうでないことを理屈でわかっていても、自責という感情はとまらないものです。

 

かわいいねとの周囲の言葉を聞く度に押し寄せる鈍い痛みの様な申し訳なさに近い感情。

 

かわってやれることなら、どれだけ楽なことか。

とてつもなく大きな、罪に近い感覚はいったいどこから来るのだろう。

父である私にできることは、ただただ飲み込むこと。

 

人間は大きな筒。

 

食べ物だけでなく、全てを飲み込み排泄する。

筒に事象を通して人生と為すのでしょう。

 

息子たちが今日も「かわいいね」と彼女を抱きしめます。

まるで4月に咲く小さな花を可愛がるように。

 

 

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春野菜のゼリー寄せ